アイロボット・コーポレイション 副社長アジア太平洋地域統括
挽野 元 氏
ひきの・はじめ 1967年神奈川県横浜市生まれ。武蔵工業大学大学院(現・東京都市大学大学院)で超音波工学を専攻、修了後、92年に横河ヒューレット・パッカード(現・日本ヒューレット・パッカード)入社。2…
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ちしき・けんじ
1963年生まれ。同志社大学法学部卒業後、85年に鐘紡(後にカネボウ)に入社、化粧品部門に配属。98年、自ら企画立案した新しい化粧品ブランド「リサージ」の社長に就任し、年商140億円にまで育て上げる。2004年、産業再生機構の支援の下、カネボウから分離したカネボウ化粧品の社長に就任し、再生に尽力。10年、テイクアンドギヴ・ニーズ社長に就任。15年、日本交通社長に就任。
「未踏の時代のリーダー論」(日本能率協会「編」:日本経済新聞出版社 出版より抜粋)
『苦境突破には何のために働くのかを考え抜きやり遂げること』
名門カネボウの危機を産業再生機構とともに再建し、その後もウェディングビジネスの経営を立て直す。
日本交通の直近3年は過去最高の業績を出す好調さだ。
だが、若い頃には働くことの意義に悩んだという。
日本交通は2018年に創業90周年を迎えたタクシー業界の老舗です。フランチャイズを含むと売上高は950億円で日本最大のハイヤー・タクシー会社であり、運行車両数約7400台は都内最大になります。
日本のタクシー市場は現在、少子高齢化による運送収入の縮小に加えて、ライドシェア、自動運転などこれまでにない大きな環境変化に直面しています。
こうした経営環境を打破するため、2015年に創業家の川鍋一朗は会長となり、新たに設立したIT会社「Japan Taxi」の経営と「全国ハイヤー・タクシー連合会」の活動に専念すると共に、私を社長に招聘し、既存事業を中心とした日本交通全体の経営を任せることにしました。わが社にとって、これからの競合は同業のタクシー会社だけではなく、ウーバーやグーグルなどのIT企業も含まれます。彼らと戦うためにはタクシーにIT技術を導入し、これまでにない新たな付加価値を生み出す必要があります。前社長の川鍋はその仕事に特化しています。
社長に就任した時に川鍋から細かい注文はありませんでした。既存事業を中心とした経営全体を見てほしいというだけです。創業三代の社長が続き、私が初の創業家以外の社長ですから、勇気ある決断だったと思います。私を信頼して任せてくれたことをありがたいと思っています。
社長に就任して半年も過ぎると、川鍋は既存事業の経営にほぼ関わらなくなり、現在は週一回のミーティングで情報の共有や意見交換をするだけです。幸い、直近3年間で過去最高の売上と利益を上げており、社員の成長に裏付けられた成果が出てきたように思います。これまで私は、「売上や利益という数字」だけを追求してきたわけではありません。売上や利益よりも、環境の変化に対応できる“つぶれない会社”になってほしい、苦境を乗り越える力と強さを身につけてほしいと社員にも伝えてきました。
そもそも日本交通の社員は真面目な人が多いのです。運行業務というオペレーションが中心という事業特性が要因でしょうが、決められたことをきちんとこなす誠実さと真面目さがある。その一方で、変化に柔軟に対応することは苦手だったように思います。市場環境やお客様のニーズは変わっているのに、これまで培ってきたオペレーションは変えたくないという意識が強かったのです。そのため、変化に合わせて仕事のやり方を変えていくことが重要なことだと言い続け、それができる社員の育成に力を入れてきました。
「経営者は、依頼主の求めている経営課題やミッションを正しいやり方で実現し、結果を出すこと」が求められます。ただし、私は「一過性ではなく、継続的に安定した結果(業績)を出すこと。そのための経営基盤を構築すること」が重要であり、そのことが私の経営者としての信条でもあります。
誤解を恐れずに言えば、一時的に企業の業績をよくすることは、そんなに難しいことではありません。収益性の悪い事業を切り捨てたり、生産性の低い従業員を入れ替えればいい。しかし、それだけでは、継続的に安定した結果を出すことはできません。社員の能力やスキルが向上し、それによって成果が上がることが不可欠なのです。
つまり、社員自らが課題を見出し、考え、行動することによって、着実な成果が絶えず生まれる状態を企業体質のレベルまで昇華させること。一言で言えば、「人の成長が企業の成長を支える」のであり、それ以外に継続的に安定した結果を生み出す道はありません。
私は自分自身を起業家タイプではないと思っています。ゼロから何かを生み出すタイプではない。それよりも、社員に対して仕事の基本をきちんとトレーニングし、足腰の強い会社にすることが得意です。野球に例えるなら、どんなにコンディションが悪くても、フォアボールで出塁し、盗塁、送りバントで三塁まで進み、犠打で1点を取り、その1点を堅い守備で守りきり、1対0で勝つことができる。そんな手堅い経営体質をつくることが得意です。まさに「基本に忠実に王道をやりきる」ということです。経営に奇策はありません。それゆえ、自律的な社員の存在が必須となります。
では、どうすればいいのか。私は、「自ら考え、行動する社員」を育てることだと思いました。それには、成功体験を持たせることが重要です。最初は課題の見出し方、対策の考え方など逐一教えますが、徐々に自らやらせ、学びを得るようにします。そのうち、自発的に動き出す社員が出てきます。そこで、成果を出したらほめることです。
私は毎月、ほぼすべての営業所を回り、月次の業績会議に出席していますが、営業所長に「何が問題か? どうするのか?」という質問をします。数字をもとに論理的な説明ができなければ叱る。これを何度も繰り返していると、「問題を見出す力と対策を考える力」が自ずとついてきます。
この数年間で、所長クラスだけでなく若い社員も成長しました。ある営業所の若い社員が、業績予測を簡単にシミュレーションできる画期的なエクセルシートを発案しました。私はうれしくて、そのシートに発案者の名前を付けて「○○シート」としました。それ以来会社の公の会議でもそのシートを「○○シート」と呼んでいます。いまではいろいろな「○○シート」があります。PL(損益計算書)の読み方なども一から教えました。PLの読み方がわからないと、本当の意味でのコスト意識は芽生えません。
ハイヤー、タクシー会社の中でこれだけのデータをもとにPDCAを回している会社は少ないのではないでしょうか。タクシーの無線配車の業務ではエリア別、時間別、顧客別など膨大なデータが蓄積されています。生産性を高めるためにそれらのデータを分析し、仮説を立て検証することを繰り返しています。私は、担当部署にはタクシー業界を超えて「日本一のコールセンターを目指せ!」と言っていますが、かなりの高い水準にまで到達できたと思います。
社員がこんなに成長したという例をご紹介しましょう。ほんの一例ですが、電話での受付業務の生産性を上げるために、「タクシーのご注文は一番、予約は二番、お問い合わせは三番」といったナビダイヤルを導入しました。誤算だったのは、タクシーにすぐ乗りたいお客様にとってはガイダンスの時間がまどろっこしいらしく、電話をすぐに切ってしまうお客様が想定以上に多かったことです。
担当の社員たちは一秒ごとに切断される電話の本数を綿密に調べ、「どのようなガイダンスの文言だったら、急いでいるお客様でも途中で切断しないか」ということを考え、ガイダンスの文言を大幅に修正しました。いまでは電話をかけると、いきなり「タクシーの配車は一番……」という案内から始まり、通常のナビダイヤルによくある操作説明やお礼の言葉は最後にしています。自分たちで問題を見つけ、検証し、ロジカルな解決法を考える組織になったと思います。こうした社員の成長に裏付けられた成果が上がることは、私にとっては最もうれしいことです。
大学時代は毎日、アルバイトと遊びに明け暮れ、授業にもほとんど出席しませんでした。勉強や部活で頑張っている友人たちに比べて「自分には何もやりきったことがない」という強い劣等感が、社会に出たら真面目に仕事をしようという気持ちにつながったのです。
1985年にカネボウ(当時の鐘紡)に入社すると、化粧品部門に配属され、大阪で営業を5年経験しました。その後、本社に転勤しましたが、営業の仕事は人一倍頑張ってきたのですが、勉強はしませんでしたし、本も新聞もろくに読まないような生活だったので、本社の社員たちが会議で話している内容はもとより言葉の意味さえわからなかったことがありました。このままではダメだと思い、一念発起し、猛勉強しました。経営書を中心に年間100冊の本を読み、新聞も3紙に目を通すようにしました。
1992年、29歳のときに企画段階から関わった新しい化粧品ブランドの「リサージ」事業が立ち上がりました。その部署に所属し、毎日遅くまで働き、それなりに充実した日を過ごしていました。ところが、働き疲れて帰宅し、一人になると何か満たされない空虚感に襲われるようになったのです。「一体何のために働いているのだろう」。だんだんその空虚感が深く広がっていく。「きっと偉大な経営者たちも同じように悩んだ時期があったのではないか」と思い、本田宗一郎や松下幸之助などの本を読みあさりました。当時読んだ本の中で、ハンセン病患者に身を捧げるために苦労して医師になった神谷美恵子さんの『生きがいについて』(1966年、みすず書房)に大きな衝撃を受けました。
こうした体験を通して、私は一つの答えを見出したように思います。「どんな仕事も人のため、世のためにある」。私は「世の中分業論」と言っているのですが、「世の中にはいろいろな仕事があり、その一つひとつが何らかの役割を担っている。皆が仕事を分業し、その役割を担うことで人は豊かな生活を送ることができる。だからどんな仕事も尊い」。そう思ったときに涙が止まらなかったことを覚えています。まさに心が救われたような思いでした。
仕事は「生活のため」「組織や社会のため」「自己実現のため」そして、「人のため、世のため」なのでしょう。
そのことに気づいた私は、自分も世の中に役立つ仕事をするために将来のキャリアビジョンを立てました。30代で事業を運営することを経験し、40代で会社の経営を経験し、50代で生まれ故郷の神戸に貢献する。そのために10年間分のカレンダーを用意し、毎年達成するべき自分の目標を書き入れました。さらに自分を追い込むため、40歳までの残り日数をカウントダウンする時計を2台購入し、1台を自宅に、もう1台を職場の机の上に置きました。目標の期限を毎日確認できるようにするためです。
欧米の大学では、「仕事の意味を理解し、自身のキャリアの目標を立て、そのために何をするべきか」ということが明確な学生が多いと聞きます。日本の教育でも、「社会に出て何をしたいのか」ということを向き合う時間を早い段階からつくるべきだと思います。
1998年にリサージ事業が子会社化され、奇しくもその社長に抜擢されました。当時はまだ35歳でカネボウでは異例の人事だったようです。リサージを「顧客志向の理想の化粧品ブランドにする」という志を抱き、6年間仲間と一緒に頑張った結果、年商140億円のブランドに成長しました。当時、一つのブランドで100億円を超えるものは数少なかったと記憶しています。いまでも振り返ると、私の人生の中で最も楽しい時期でした。同じ志を抱く仲間が大勢いましたからね。しかし、リサージは好調だったものの、本体のカネボウはますます業績が悪化し、新聞などではどこに売却されるかが取り沙汰され、社内は悲惨な状況になっていきました。
入社以来、素晴らしい上司や仲間、部下に恵まれました。私はそんな多くの素晴らしい社員がいるカネボウが大好きでした。そのカネボウがいま燃え朽ちようとしている。もし私がカネボウのために何か役に立てるのなら身を投じたい。リサージの仲間との仕事を続けたいという思いも強かったのですが、それを捨ててでも、いざというときはやらなければならないと腹をくくっていました。まさに、意を決した「刀を抜いた状態」でした。
2004年、ついにカネボウは産業再生機構(以下、機構)の支援を受けることになりました。カネボウ本体から化粧品部門だけが切り離され、株式会社カネボウ化粧品として新たなスタートを切ることになりました。
あるとき、カネボウの社長秘書から社長室に来るよう連絡が入ったことから始まります。何か怒られるようなことをしたかなと思いながら社長室に行くと、そこに機構の方が同席されていました。新たな会社の人事の話だと直感でわかりました。「営業かマーケティングの責任者かな」と思っていたら、「社長をやれ」という話でした。まさに青天の霹靂です。一瞬驚きましたが、「まさにそのときが来た」と思い、「承知いたしました」と答えました。後で聞いたところによると、「少し考えさせてください」というように即答しなかったら、人選を見直すことになっていたようです。
私をなぜ社長に選んだのかということについての説明はありませんでしたが、機構のCOOだった冨山和彦さんの話によると、社員にヒアリングしたら特に若い社員から私の名前が挙がったそうです。また、カネボウ化粧品の課題や何をなすべきかをビジネスの共通言語やフレームワークで明快に説明できたこと、さらにカネボウのような歴史のある大企業の子会社の責任者は、ある種の「したたかさ」がないとできないが、子会社(リサージ)の社長としてそれなりの実績を出していたことが評価されたようです。
そもそも機構は2007年までの時限立法の組織でしたから、2年から3年という短期間で再建を成し遂げる必要がありました。経営にはスピードが重要ですが、テーマによっては時間をかけたほうがよい場合もあります。「本来は時間をかけてやるべきことだが、時間が限られている。どうするべきか?」。こうした「短期と長期のトレードオフ」の中での難しい判断が多かったように思います。
企業再生は、その会社の状況や求められる期間などによって処方が異なります。医療において外科的、内科的、心療内科的アプローチやリハビリなどを患者の状況に応じて適切な処方を選択することと似ています。一人の医師がすべてを診ることができればいいのですが、現実的には難しいものです。企業再生においても同じことが言えます。経営者がさまざまな分野のプロフェッショナルを束ね、状況に応じて各分野のプロフェッショナルが適切な処方を施す。その全体をディレクションするのが経営者の役割です。
機構の支援下で取り組んだ改革の中には、これまでのやり方を180度変更することも多く、ときには大きな労力や痛みを伴うものもありました。「なぜ、そうしたことをやらなければならないのか」ということを社員に腹落ちするように伝えていくことも私の重要な役割であり、骨の折れる仕事でした。
「再建のためにやらなければならないこと」と「会社のビジョン」のベクトルを合わせ、そのことが「社員のやりがいや成長につながる」ようにしました。また、「伝えたい思いや考えを整理し、それを表現する言葉を吟味して選び、相手の目を見て話をすること」を心がけました。「自身の思いを言葉に託し、相手の心に届ける」というのが、社員に重要なことを理解してもらうときの基本姿勢です。
機構の支援が始まってから眠れない日々が続きました。しかし、それも限度を超えると床に入った瞬間に落ちるように眠ってしまう状態になりました。眠りに落ちるそのほんの一瞬が、「もう考えなくていい」という一日の中で解放される唯一の瞬間でした。翌朝、目が覚めると一瞬の内に課題や悩みごとが思い起こされ、気の重い、長い一日が始まるという毎日でした。
そんな厳しい日々を支えたものは、お世話になった上司や仲間とカネボウという会社が大好きだったということ、そして約120年の歴史を持つ会社の重要な局面に立ち会うことになったという使命感でした。当時の秘書が「会社を辞めようと思っていたが、知識さんが社長になるならもう少し続けようと思いました」ということを打ち明けてくれました。この言葉も私を支えてくれたことの一つでした。こうした「小さなことかもしれないけど大切にしなければいけないこと」を感じる心は、経営者にとって大切なように思います。
機構の支援が始まって2年が過ぎた頃から、業績はV字回復の兆しを見せ始めました。社員にも自信が戻ってきたように思います。「自ら考え、自ら行動する」。そんな成長した社員が増えてきたように感じました。いまだから思えますが、苦しくも学びの多い有意義な2年間でした。
プロフェッショナルとは「努力を積み重ねること」ができる人だと思っています。つらいこと、面倒なことを毎日継続できる人であり、私もそうありたいと思っています。
若い経営者や起業家に言いたいことは、まずは「努力を積み重ねること」。誰でも一所懸命に仕事に向き合っていれば、人生で3回の転機が来る。これを「三本の糸」に例えるならば、「志」がなければその糸は見えないし、見過ごしてしまう。お金や出世を求めることが悪いとは言いませんが、それだけでは「転機」の糸は見えません。しかし、志を持っていても準備をしていなければ、つかめない。経験のない仕事や環境に飛び込む勇気と、それを裏付ける「自信」がないと怖くて手が出ないのです。志と準備を大切にして、三本の糸をつかんでほしいと思います。
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